人名用漢字

 早いものでうちの子はもう四歳と二歳だが,子供が生まれる前,名づけのためにいろいろ本を買ったり借りたりして,夫婦で何度も相談を重ねた。どの本も名づけに使える漢字のリストを掲げていて,「苺」など数年前に追加されたたくさんの人名用漢字も含め,いろいろと吟味したものだ。
 そもそも人名用漢字とはいったい何だろうか。リストでなくその意義が知りたいが,一般の名づけ本ではあまり触れられていない。
 「子の名には,常用平易な文字を用いなければならない。」という条文が,戸籍法という法律にある。何が常用平易な文字であるかの規準は法務省令に委任されていて,それによると,常用平易な漢字とは,常用漢字人名用漢字を加えたものである。これ以外の漢字を使って出生届を出しても,市役所は受理してくれず,戸籍も調整されない。だから親としてはこの範囲の漢字で子供の名づけをするしかないのだ。
 常用漢字は,義務教育で習う二千弱の漢字。新聞などはなるべくこの範囲で紙面を構成しており,ほかの漢字を知らなくても生活には支障ないとされている。しかし,手・足・口・上・下・山・川・汁・汚・泥など人名には使いにくい字もかなり多く,常用漢字二千字程度じゃ名づけには不十分。そこで省令は,常用漢字じゃないけどこれも常用平易な文字ですよ,名づけに使ってね,と人名用漢字をリストアップする。
 戦前は名づけに使える漢字にこれといった制限はなかった。お年寄りの名前にしばしば見たことのないような漢字が使われているのはそのため。「蔚」とか「悳」とか。それが,漢字全廃を視野に入れた戦後の国語改革で,人名には当用漢字(常用漢字の前身)しか使ってはならぬ,とされ,「之」や「弘」といった簡単な漢字も使えなくなった。私の親は団塊の世代だが,哀れにも彼らは人気の高かった「彦」や「也」,「龍」などが入った名前をつけてもらうことができなかった。むかし隣に同級生が住んでいたのだが,その家の表札を思い出す。お父さんの名前は,「…比古」さんだったっけ。たぶん「…彦」としたかったのに,役所に突き返されたのだろう。
 そりゃあいくら何でもあんまりでしょ,というので昭和二十六年に導入されたのが人名用漢字。以後徐々に増え,平成十六年に大量追加され現在は千字ほど。最後の大量追加はほぼ五百字にものぼる。
 この椀飯振舞の背景には,「この字だって常用平易だ,使わせろ!」とばかりに,親によって行政訴訟がいくつも提起され,裁判所でその主張が認められるという状況があった。裁判所の判断は,常用漢字人名用漢字でない漢字でも,戸籍法にいう「常用平易な文字」であれば可というもの。これって結構すごくて,法務省令やその運用は,「琉」や「曽」などの,常識的にみて常用平易な漢字を名づけに使うのを事実上禁止しており違法である!と言ってるようなものだ。
 今これほど多くの人名用漢字が使えるのは,出生届不受理に何年も耐え,法廷闘争にもちこんで最高裁までたたかった先輩たちのおかげでもある。ありがたいことだ。出生届不受理に耐えたのは親というより子という感じもするが…。大きな不条理をただすにはある程度の不条理は甘受するしかない…のかな。とにかく彼らの行為は社会を動かした。
 それにしても,平成十六年の最後の追加分には「恢」,「綸」,「晨」などいまや常用平易とは言い難い文字も多い。しかも,「塡」,「昏」,「鞭」,「臆」,「晒」とか果たして名づけにつかえるのか疑問な字まで手当たり次第に追加していて,ずいぶんとポリシーに欠ける。うるさい親もいるし,どうだっていいや,あれもこれも入れちゃえという投げやりな態度にみえる。
 それでもまだ足りないって争ってる人がいたらしいけど,先週最高裁で抗告棄却。ダメだったのは,「玻」という字らしい。そりゃあ,現状でさえ到底常用平易とは言えない字が人名用漢字になっているのに,それに漏れた字が常用平易といえるわけない*1よなあ。
 いずれにしろ,人名用漢字大奮発で当局は本丸の戸籍制度を守り抜いた,ということなのかもしれない。


●参考文献
 円満字二郎 「人名用漢字の戦後史」 2005 岩波新書
 人名用漢字について知りたい人にお勧めの本です。複数の勢力の駆け引き,せめぎあいの中で親たちが振り回されてきた様子が垣間見えます。最後の平成十六年の改定では,手当たり次第に追加したように見えても,よっぽど酷い字は削除されているんですね。「嘘」,「膿」,「呪」とか。「垢」や「鼠」も削られているから,赤ちゃんに「垢太郎」や「鼠小僧」はつけられません。それにしても著者の名前は当然ペンネームかと思っていたら,なんと本名。出版社で漢和辞典の編輯に携わっているとのこと。天職ですなぁ。


※三年前に別のところに書いた文章に加筆,修正して再録しました。円満字二郎さんはその後出版社を辞してフリーに。昨年九月,NHKの番組「知るを楽しむ歴史は眠らない」で,「戦後日本漢字事件簿」全四回に出演。その第二回は人名漢字の話でした。

*1:コメント欄参照